学期半分終わったけど、どう?

こんにちは。yokです。

早いもので、アメリカに来てもう大体二か月が経ちました。受けている科目の中間試験も終わり、秋学期の後半戦が始まりました。後半からまた新しい科目を取ろうと思っています。前期より科目が一つ増えるのでより忙しくなりそうです。頑張ります。

 

さて、今回は前期の振り返りといったら大げさかもしれませんが、留学を通して感じたこと思ったことを軽くまとめようと思います。

 

圧倒的文化圏の違い

アメリカに来てまず思ったのは、人と会話ができねぇということでした。そもそもアメリカ来たばかりで英語もあんまりしゃべれない、しかも共通の話題なんてあるわけがない。こんな状態じゃあ会話も自己紹介くらいしかできず、辛い期間が続きました。当初は自分の英語力のなさが原因なのでは?と思っていたのですが、最近になってようやく、原因はそこじゃないということに気付きました。複数人で会話するような機会があると、アジア圏、特に日本人なんていうのは少数派も少数派。対して周りはヨーロッパ圏、北米出身の人が多数派。当然会話はあちらの文化圏での話がほとんど。そもそもコミュニケーションが苦手なのにそんな状態で会話に入れるはずもなく。正直苦しい。「日本ではこうなんだよ~」と言っても、誰も日本の事情なんて気にしないし、興味もない。「ふーん」の一言で終わってしまうからそれもまた会話が続かなくてつらい。一対一の会話ならともかく、複数人での会話とかはきついな~という感じ。単純に、楽しくない。会話の輪に入っても、「なんやねんこいつ、なんもしゃべらねぇな」という目線が辛い。楽しくない。辛い。

最近は、それでもましになってきて、ちょくちょく発言できるくらいにはなったのかな?それとも機会を避けてるだけ?ちょうど即位礼正殿の儀があった後、スイス人と君主制の話ができるくらいにはなってるのでましになってきていると信じたい。

 

”楽しい”と思えることをやっていい

 こっちに来て思ったことは、”楽しいことをしよう!”という意識が強いことです。正直、学問然り、他のこと然り。MITの研究室に所属しているのですが、指導担当の人に「研究は楽しくなくちゃ!」と言われた時にすごく驚いたのを覚えています。また、講義にしても、「講義だりぃ~、自主休講にしちゃお」みたいな人はあまりいません。それだけ科目が難しいだけかもしれませんが、周りの様子を見ていると盛んに質問が飛んで学ぶことを楽しんでいる人が多いように感じます。

また、能動的に生きている人が多いなというのも感じたことの一つです。例えば、学校に就活イベントが来たときは学士の1,2年生からインターンをやってみようとしていたり、3年生からJob-huntingをしていたりとキャリアパスをよく考えて動いているんだなという印象を受けました。自分の学校ではほとんど大学院に進学するので、今まであまり就職については考えてこなかったのですが、大学卒業を機会に将来についてよく考えてみようと思いました。

 

世界を変えるのは私ではないということ

そもそも「世界を変えよう」なんていう情熱は1mmもないので、若干タイトル盛っている感じはしますが…(笑)。トビタテの事前研修の時、他のトビタテ生の話を聞いていると、「環境問題を解決したい!」だとか、「新しい技術で世界を変えたい!」とか、志の高い方達が多くいました。志高いのは素晴らしいことです、頑張ってくださいというのが自分の感想でした。話を聞くのはとても楽しく、興味深いことだったのですが…自分が彼らほどの情熱をいわゆる社会問題に向けられるとは思えません。まして、MITに来てみると、頭の回転が恐ろしく早くて周りの統率を取るのが上手で、社会問題等に情熱を向けられる、まさに”リーダー”みたいな人がたくさんいるわけです。世界を見渡せば五万といるでしょう。対して自分は、環境問題とか貧困問題とかにあまり情熱は燃やせませんし、正直興味もあまりないです。「アフリカにソーラーパネルを作って電気を安定的に供給して人助けをしたい!」という人よりも「カナダで大規模なマリファナ農場作りたい!」という人の方が、自分は面白そうだなと思います。

「じゃあ専門分野では?」と思う方がいらしたらごめんなさい。先ほども書きましたが、「世界を変えよう」なんて1mmも思っていません。自分が進学する動機、留学する動機は好奇心がほとんどです。社会に貢献したいから、世界を変えたいから勉強しているわけではありません。(副次的に貢献出来たらラッキーだとは思いますが…)トビタテのコミュニティとか、学校で行われている”リーダーシップ教育”に抵抗を感じるのはたぶんそう思っていない自分に引け目を感じてしまっていたからだと思います。正直になって冷ややかな目で見られることがすごく怖かったです。「あ、この人はどうでもいい人だ。」と思われるのがすごく嫌でした。だから若干話を盛って「自分はこんなすごいことをしたいです~」なんて思ってもないことを言ってみました。正直苦痛でした。今思うと、そのコミュニティで交換可能な存在になりたくなかったんだと思います。「どうでもいい人」という交換可能な存在になりたくなかったんだと思います。

日本国内だけでも、自分より能力のある人間は切って吐いて捨てるほどいます。自分より志高く高潔な精神でひたむきに努力する人間も腐るほどいます。世界に出てしまえば、星の数ほどそういう人達がいるわけです。それを踏まえると、自分という存在はほとんどの人にとって交換可能な存在なんだと思います。私が他の人と入れ替わっていてもなんら差し支えない。私が何者であろうがなかろうがほとんどの人にとっては、どうでもいい話なんだと思います。だから私が何をしようがしまいが、自分の上位互換は吐いて捨てるほどいるわけだし、どうしたって交換不可能な存在にはなれないと思います。ここまで書くとすごいネガティブな感じですが、そうではありません。むしろだいぶポジティブにものを考えられるようになったと思います。というのも、アメリカに来て思ったのは、「誰も自分のことなんて気にしない」ということです。もちろん交換不可能な存在にはなれません。しかし、「なにをしたって誰も気にしない」のなら、じゃあ好きなことすればいいんじゃね?と周りの人達を見ていて思いました。各々好きな服を着て好きなことをして好きに生きてる。その様子を見ていると、周りのことはあんまり気にせず好きにすればいいんじゃね?と思えるようになりました。そうすると、気持ちがだいぶ楽になりました。世界のことなんてどうでもいい、他の誰かが勝手にやってくれる。自分は交換可能な存在だから、好きなことを勝手にやる。この考え方は案外しっくりきてます。誰かに変に期待されてがっかりされるのも嫌ですし。そもそも期待するのは相手の勝手だから、私のしったこっちゃないです。期待して勝手にがっかりされるのは非常に迷惑というかなんというか…私の問題じゃないです。

 

「自分が何者であるかという問いに答えられますか?」への答え(現状)

答えられます。何者でもないです。

というのが現状の答え。決して自分を卑下しているわけではないですが、相手にとって自分は所詮交換可能な人間なので、何者かになろうとするだけ徒労な気がします。自分以外の何者にもなろうとはしていませんし、何者かになろうとして何かをしているわけでもないです。自分のやりたいことをやって生きていけたらそれでいいです。すごく難しいことだとは思いますが、そういう意識を持っていたいと思います。

 

すみません、今回はほとんど愚痴になってしまいました…(笑)

 

ではまた。

 

yok